WHITE

でつ

肉まん

『今日男の子が部屋の中を不意に走って死角から出てきた女の子とコツンとぶつかったんだけど、逃げるでもなくぎゅっと抱きしめてた。「大丈夫だよ、見せてごらん」と離したら、あまり言葉が上手ではない子だけど「ここイタイ!ここイタイ!」と一生懸命女の子の足を指差してた。はああその気持ち、大事。』

『たしかにごめんねって言葉も大切だけど、口先だけのごめんねなら、心からの心配が欲しいよね。わかるわかる。その男の子も痛かっただろうに一番に女の子を抱きしめたの真似したい。』

 

ということがあった。その男の子はもともと発達のスピードがゆっくりで、3歳半で2語文を話すのだけれど、それでも女の子が痛いことを一生懸命伝えてた。部屋を走るという悪いことをしたとか、怒られるかもとか、逃げたいとかではなくてすぐに心から心配するその気持ちが本当に本当に優しくて、忘れていたなと思った。

何か失敗をした時に、その失敗で迷惑がかかった人への謝罪とか、フォローしてくれた人への感謝とか、そういうことよりも、自分が怒られることへの嫌悪感とか羞恥心とかそういうのが先行してしまう。本当にその男の子は偉い。たしかにまだ嫌悪感とか羞恥心なんて感じ始めるには少し早いかも知れない。けど、子どもから学ぶことはたくさんたくさんあると感じた。

ご飯を一口食べて笑って「おいしいね」と言うとか、楽しいから笑うとか、悲しいから泣くとか、ああああ大切にできてるかな。悲しいけど笑ってないかな、相手を困らせるために泣いてないかな。「大人なんだから当たり前よ」と片付けることはできるけど、わたしはまだまだなんだよな。まだまだそうやって割り切ってもいい大人ではないんだよな。大人だからという一言で片付けていい悪いことなんてひとつもないよな。子どもでも大人でも、悪いことは怒られなければならないし、いいことしたら褒められていいよね。毎日生きてるだけで褒められていいよね。今日も生きててくれてありがとうって言われたいよね。

夫婦で夜に犬の散歩をしたいし、その時間が2人がゆっくり会話できる時間でありたいし、寒い日にはコンビニの肉まんを半分こしたいし、こたつで雪見だいふく食べたいし、ひまわり畑でかくれんぼしたいし、海で貝殻見つけたいし、朝起きて日光の紅葉を見に行きたいし、たくさん走りたいし、たくさん歩きたいし、どうにかなりませんか。

今日もありがとう、大好きだよ。

例え話なのですが、

例え話なのですが、コーヒーをブラックで飲めるようになった話をしようと思います。

まず、自分の思い出せる限りで、初めてブラックコーヒーを飲んだのは小学校3年生くらいだったと思います。おばあちゃんとお邪魔した近所のお家で、縁側でコーヒーを2杯出してもらったのだと思います(小3のわたしにブラックコーヒーを出したその近所のおばあちゃんもなかなかだけど)。まあ当然、スティックの砂糖の入った瓶も隣に置いてあったのですが、なんか少し大人の真似をしてみたくなったのか、そのまま飲みました。もう信じられないくらい苦くて、砂糖を1つ入れても苦くて、2つ入れても3つ入れても苦くて、変わらねえと思ってそのまま飲み干したと思います。おばあちゃんは笑ってました。そこからどうも、ブラックコーヒーが苦手で、甘ったるいカフェオレにして飲んでいました。

でも、大学に入って、実習期間になった時に、実習日誌という難題が課されまして(やってみたらそれほど難題でもなかったけど、教授に脅されまくっていたため難題と思い込んでいた)、寝る前に絶対日誌を終わらせなきゃという使命感に駆られていました。眠らない方法をブラックコーヒーしか知らなくて、レッドブルとか炭酸系がどうも苦手で、夜ご飯食べた後に、ひたすらコーヒーを飲みながら日誌を書きました。やっぱり初日は、小3の時のあれと変わらず、美味しくなかったんですけど、なんとか飲み終わりました。次の日も次の日も飲んでいたのですが、人の体ってすごいですよね。急になんの違和感もなく飲めるようになったんですよ。まあ、歳を重ねていて舌の細胞が死んでるのもあるのだと思うのですが、コーヒー美味しいなと思って飲めるようになりました。

でもチョコレートも大好きで、チョコレートに合わせて、ブラックコーヒーを飲むと美味しいよね、なんて大人なことは言えず、チョコレートにも甘ったるいカフェオレを合わせて飲んだりするので、まだまだ子どもなんだと思います。スタバでもドトールでもマックでもでブラックを頼む時は、多分安いからですね。それだけだと思います。美味しいんですけど、できれば甘いのを飲みたいですしね。コンビニではチョコレートに甘ったるいカフェオレ買ったりしますし。

それで、何の例え話かと言いますと、なんでしたっけ忘れました。まあ読んでる方が何か感じてくれればそれでいいです。チョコレートとコーヒーと苦い話から何を感じればいいんだって話ですが。

まあ、それもご愛嬌ということで。

さつまいも

こんばんは。

今日はこの日記を始めて、1年が経ったみたいです。まず、そもそも続けるのが苦手なんです。何事も。継続が苦手。一気に成長が見られるのは好きなんですけど、地味に地味に進んでいくやつがどうも性に合わなくて。よく1年間これを消さなかったなと思います。

わたしは1年間何をしていたかというと、特に何かをしていたわけでもなく、ただ仕事をして、ただ生活して、ただただ人に愛されて過ごしました。1年間また、人に恵まれたと思います。わたしが好きな人はわたしを好きになればいいと思って過ごしました。その通りになったこともあれば、そうじゃないこともありましたが、どうにかこうにか、自分の道になったと思います。

 

そういえば、この前3つ願いが叶うなら何を願うか、という話をしました。

1.目を大きくする

2.一生遊べるだけのお金をもらう

3.老衰で死ぬ

にしました。1はまあ、その通りで、2は仕事をしたくないからで、3は病気で死ぬのは苦しいからです。絶対に老衰で死にたい。誰にも迷惑をかけずに元気に老衰で死にたいです。子どもにも親にも兄弟にも恋人にも、愛されて死にたいそれだけです。

 

あともう1つ今日はお祝いが。好きな人と両想いになって8ヶ月が経ちました拍手。もともと記念日とかはなんとなく覚えているタイプだったのだけれど、今の人とのは毎度毎度忘れます。今日もすっかり忘れて飲みの約束入れてしまうし、気がついたのもお昼を過ぎてからだし。でも好きなので許してください。褒められたいと思うのも、怒られてもいいと思うのも、わがまま聞いてもらえるのも、恋も愛も酸いも甘いも切ないさつまいもです。この人だけでいいです。だから、相手だってさつまいもであってほしいと思うのです。ほかほかの焼き芋を半分こして公園のベンチで食べたいです。今も売ってるのかな。

 

今日はポカポカでしたね。どこかの誰かが、春の練習と言っていましたが、本当にそんな気がしました。春みたいな風だったし春の匂いがした。去年のこの日記にも同じことを書いていた気がします。やっぱり昔の人はすごいね。春が来た日を1年間ごとに記録したりしていたのかな。それを専門にしている人がいたのかな。今日から春かも、今日から夏なんてね、今日から秋かな、今日から冬ならいいな、なんて考えながら1年過ごしていたとしたら、なんて充実してるんだ。それを書いて文字に残して、何千年も先に残すなんて、してみたいです。

 

みんな元気ですか。

元気を思い出していきましょうね。

一番大切な日

一番大切な日を教えてください。

 

と、会社の新年会のゲームで質問した。匿名だから誰が書いたかは分からないようになっているのだけれど、まあ字で分かる。よく字を書く仕事だから。

当てられた人全員が「自分が生まれた日」と答えた。まあ確かにこの場で本当の大切な日を答えることはしないだろう。誕生日は確かに大切な日なのかも知れない。ちなみにわたしは誕生日なんて思い浮かびもしなかった。というか、正直1日も大切な日が思い浮かばない。これは緊急事態かも知れない。わたしの大好きな友達に質問したら「ひみつ」と返ってきたことはひみつ。

世の中でいう誕生記念日や結婚記念日などというものは、その年のその日のその瞬間でしかないわけで、毎年同じ名前の日はくるけど同じ日はもうこない。普通に過ごしていれば普通の1日に名前をつけて呼んでるだけ。え、なんか、すごく言葉が乾いてるな。

要するに伝えたかったことは、人生一番大切な日ばかりだよってことです。

はい、今も、今も、今も、今も、今も、もうこないからね。この時間はもうこないからね。こんなブログなんか読んでないで、好きな人に告白をするとか、本を読むとか、街に繰り出すとか、飲みに出るとか、ウィスキーを飲むとか、酔いつぶれて朝方後悔するとか、そういうのをしなさい。ね。この、今も、今もってやつ、小学生のときに、お母さんに言葉で「ねえ、今も、今も、今も、今も、今もさっきの今は今の今からするともう過去だよね。はい、過去、過去、過去、過去」ということをやり続けたことがある。(今がゲシュタルト崩壊した人こっそり教えてね)。お母さんは、少し呆れたように笑ってそうだね、とだけ返してきた(気がする)。小学生のわたしにとっては今世紀最大の大発見だった。すぐ過去がくるってすげえ!ってなってた。そのあと何かの会話に使ったとかそういうのは特にないけどその会話だけすごく覚えている。

なんでいまだに傘は手持ちで頭の上にさしているの?着物着てる時代から変わってないじゃん。進化して人の周りにバリアとかができても良くない?とか、なんでまだ、洗濯物って物干し竿に干してるの?着物着てる時代から変わってないじゃん。時間かけずに乾く何かができても良くない?とかそういうことばかり言う子だった(きっと面倒だったと思う)。しまいには、一番大切なものの1つはって言葉おかしくない?一番って1つでしょ?「〜のものの1つ」がついたら、あれもこれもそれもってできちゃうじゃん?とか言っていた。

 

でも、大人になって「〜のものの1つ」の大切さが分かる気がする。

 

わたしの一番大切な日の1つは、あれです。あと、それとこれもです。

Have your best Christmas ever.

お久しぶりのような。

こんばんは。なんとなく暇になったから書いてみようかな、なんて。あとわたしの大好きな友達がわたしにお題を出していたのだけど、何だか忙しくて、というか心が時間に追いつかなくて全く書けていなかったので書こうと思います。

 

『大人と子どもの違いとは』

 

という質問をした時にその子は“自分の力で”許せるかどうか、他人のことも自分のことも。と答えた。許可がない、ということがとっても怖いのは言うまでもない。とてもとても怖い。「〜してもいい?」「いいよ」の、そのいいよ、が欲しい時ってたまにどころではなく色々な場面でたくさんあると思うのだけれど、それがないのが大人。自分で判断して成功して失敗して、成功して失敗して。その、自分の行動を許せるかどうか。「あの人がいいよって言ったから」はもう通用しないんだよね。自分でやったのだから仕方がない。自分でやったから成功した。そういう風なことも含めて、“自分の力で”許せるかどうか、と言ったのかなと思った。合ってても違くても多分、ふっと笑って面白いね、なんて言うのだと思う。

 

わたしは『素直の重さ』だと思う。

子どもはすぐ泣くしすぐ笑うしすぐ怒るしすぐ寝る。いつも全力で“素直”だなと思う。そんなに素直に泣けたらどんなに楽だろうとも思う。でも何で大人がその素直を出したらいけないのか。いけないわけじゃないのだけれど、世間体や他人の目を考えると出来ない人が大半だと思う。なんでか、わたしが思うのは、大人の素直はとても重い、そして相手を疲れさせる。他人に無駄な重力を与えたり、責任を持たせたり、相手を上げたり下げたりする力があると思う。例えばわたしが泣きたい時に素直に大声で泣くとして、聞いてる相手はきっと疲れるし、なんでこんなこと自分に言ってくるのだろう、とか考えると思う。その時点でだいぶ重い。大人は泣くこと怒ること以外にもたくさん仕事はある。子どもは泣くこと怒ること笑うこと全てが仕事。なんかうまく伝えられないけど、そんな感じ。

でも、たまに、本当にたまに、大声で泣いたり笑ったり怒ったりする毎日いいなと思ったりする。少しだけね。

 

今日はクリスマスらしい。どんなクリスマスを送っているのか気になる人も気にならない人も気になる人と一緒にいる人もいない人も。とにかくみんな少し浮き足立った雰囲気で街を歩いてくれればいいなと思う。だって1年に1日だよ。そんな日くらい、浮かれようね。

 

良いクリスマスを。

でつ

まず、その人は下を向いて笑う。髪の毛を整える時は、犬のように頭をブンブンと振る。よく笑ってよく泣く。動き一つ一つがゆっくりで丁寧にこなす。日本語の使い方が少し変で独特で幼い。あと、心も身体も実は強い。

わたしがこの人に変わらず思っていることは一つで、そのまま進めばいいのに、ということ。だってこの人はそのままが一番かっこいいから。でもどっちかで必ずつまずく。「そのまま」の方か、「進む」の方か。なんとか自分をだましだまし進む。そのまま止まる。そんな感じに。そのまま止まる、は、いいのだけれど、なんとかだましだまし進まれると本当に全力で止めたくなる。でもその人のことだし「大丈夫」と笑って進んでいく。それでも大丈夫じゃない時が来て、それに気づかないで進む。「今、大丈夫じゃないでしょう」と言わないと止まってくれない。多分根本的に不器用なのだと思う。本人もよく不器用だから…と眉尻を下げて笑うけども、その不器用とは違くて、なんというか、自分のことになると無頓着というか、そう、もっと自分のことを大切にして欲しい。でも、どうやったらいいかきっと分からないだろうから、見本が必要なのかなと話した瞬間に思ったのは覚えている。言葉にするとおこがましいから言えないけど、「自分を大切にする見本」になれたらな、と。その人は「すごいね、本当にすごい」と言って褒めてくれるけども、何もすごいことはしていない。自分の生きやすいところで自分の好きな言葉を使って、自分のものを使って生きるだけ。自分が生きやすいところが見つけられなかったら、作るだけ。そうやって、見せて魅せて認めて認められて、とやっていけば、少しでも前に進んで来れるのではないかと、ない頭でぼんやり思ったのを覚えている。上野で。

その人は本当は自由で傲慢で奔放で底なしなのではないかなと思ったりする。わたしよりも。そう思い込んで欲しいな、とも思ったりする。世の中楽勝だなって、自分は周りを幸せにしているって、思って欲しいな。だって本当にそうなんだもん。大丈夫だよ、なんだってできるよ。「出来ない」って言うことも出来たことの一つなんだよ。ほら、なんでも出来たことにできるんだよ。

自信を持ってとか、大丈夫だよ、なんてことを軽く言ってしまうけども、本当に軽く受け止めて欲しい。わたあめくらい軽く。なんなら溶かしてしまってもいいから、軽くあってほしい。重い言葉をバカにしながら言ってみたり、甘い言葉を寝ぼけながら言ってみたりしたらいいじゃない。ね。大好きだから。そのまま進みなよ。何も怖くないよ。

ジントニック

少しだけ気持ちを出す、というのが今のわたしにとって一番の最善の策なのかなと思う。「失礼を承知で申し上げますが」と前置きしてから、本当に失礼なことを申し上げたわけですがそれでもそれがわたしの本心だし、わたしの言い分だし、例えば誰がどんな風に私を評価していたとしても、わたしだって評価する権利はあるわけで。わたしの話なので、わたしの話しかしてこなかったです。

今日は7:10に起きて、歯磨きをして顔を洗って髪の毛を直した。化粧をした後に7:50から朝ごはんを食べ始め8:10家を出た。最近のお気に入りのバンドの曲がランダムに流れて、ジントニックという言葉が出てきて飲みたくなった。ジントニックは好きなんだけど、多分味が好きで好きになったわけじゃないと思う。一番最初は大学生の時のバイト仲間に「綺麗なお酒」と聞いたこと。本当かどうかは分からないけど、余計なものを入れていない純粋なお酒だと言っていた。そしてまた別の時に「いい女は最後にジントニックを飲んで帰る」と聞いたこと。飲んだ後すぐにキスをされてもいいように、というなんとも胡散臭い話が妙に羨ましくなってしまい好きになっていた。と思う。今は味も好き風味も好き。明日はジントニックを飲もうかな。

1週間自炊をしてみたけれども、なんかすごく生活してる感じがした。もともと生活は好きで、食べ物とか買い物とかも大好きなのだけれど、一人暮らしをし始めた頃から生活がだいぶ適当になっている。もっと丁寧な暮らしをしたい。仕事は生活じゃない。仕事を生活だと思っていない。結構な重力で引っ張っていってしまうから、自分の今の一部だと勘違いしてしまいそうになるけど違う。掃除をして、洗濯をして、ご飯を作って、寝る。ただそれだけを続けるのが一番難しいような。結局わたしは自分が大好きで、自分の時間が大切で、自分にとっても甘いのだと思う。でもそれでも、わたしの今を豊かにしてくれる人はいて、「幸せ者です」と言ってくれる人がいて、今のこの中でも十分に十分なことをしているのだと少し嬉しくなった。

みんなは今自分がどのくらい幸せかを考えたことがあるのだろうか。毎日の怒涛の流れに追われて追い越されて追い抜いて、を繰り返しているうちに80歳になったらどうしよう。わたしはまだまだやりたいこともある。だから、24時間は24時間というスピードで進んでいってほしい。それをどう使うかをみていてほしい。

ただそれだけ。